人はジャッジの場にさらされると、委縮し、緊張する。
自分以外の誰かの正しさを、突き付けられるからで、
その正しさは、自分の足らないところにフォーカスさせられるからだ。
そのジャッジをしてしまう方の人たちの多くも、
普段から自分をジャッジして苦しんでいたりする。
その苦しみは、ひどい場合は、誰かを誹謗中傷するという、
誰かに対する強いジャッジの形で、究極的な自己正当化として表れたりする。
一部の学びの場においては、「ジャッジをやめよう」みたいなことが推奨されていたりするが、
ジャッジの強い人に限って、「ジャッジする自分はダメだ」みたいなジャッジが働いて、
自己嫌悪、という一つのジャッジに落ち着いてしまったりする。
ジャッジ と 自己正当化はとても密接な関係がある。
自分の正当性を主張したい、そのよりどころが「正しさ」なのだが、
その「正しさ」は、本人固有のものにも関わらず、「普通」「一般的に」「そんなことってある?」「常識的に」みたいな言葉を伴って表れる。
この言葉をよく使う人ほど、日常的にジャッジに苦しんでいると言って良い。
自己正当化、という、「自分が間違っているなんて思いたくもない」という欲求は、
その欲求の強さ故に、さらに自分が「間違っているのか?正しいのか?」という検証活動を活発化させ、
自分は正しい、というアピールと、誰かが間違っている、というアピールを加速させてしまう。
このジャッジから抜け出すオーソドックスな方法は、「正解を手放す」ということなのだが、
意外と難しい。
それくらい、私たちの中に、正解頭が浸透しているということだろう。
正解、ってモンスターだ。
正解がない、というわかりやすい根拠は、「人はそれぞれ違う」ってことだ。
つまり、正解を手放す、ってことと、ダイバーシティとは同義語だ。
個々人が持つ無意識的な正解は、何かしら過去の体験による強いジャッジが引き金になっている可能性が高い。
一番恐ろしいジャッジは、「自分はダメだ」というジャッジで、
このジャッジが信念レベルにまで発展していると、
「自分がダメであり続ける」ことで自己正当化を果たすことになり、
いつまでたっても人生が辛いものになる。
ジャッジが一番問題になるのは人間関係だ。
どこかとどこかが合併すると、お互いの正解が激突する。
私たちはこれまでこうだったのだ!!!!
過去と同じことをやり続けてしまう、というのも、一つの自己正当化である。
その過去がたとえ間違ったことであっても。
私たちは、もうどうにもならない過去さえも、正当化したくなる。
関係に持ち込みたいのは、「目的」である。「ビジョン」と言ってもいい。
組織の中で集う人たちは、ビジョンという目的を共有している。
近頃、目的が違うくせに、その組織への所属を目的としている人たちがいて、めんどくさい。
ビジョンがはっきりしていると、ビジョンにどちらが近いか、という判断基準ができるのだが、
ビジョンがない、もしくは浸透していないと、個々人のジャッジばかりになってうまくいかない。
正しい夫婦像なんてない。
あるのは、こんな夫婦になりたいね、っていう目的を共有した二人だ。
正しい会議なんてない。
あるのは、本来的な目的で、その目的に沿って集められた人が、目的という客観性で判断しようとする対話だ。
どっちが正しいなんてない。
あるのは、目的を共有した人たちが、お互いが違うよね、ってところからスタートする対話だ。
正解を手放すと、絶対に人間関係はうまくいく。
この、不健全なジャッジを手放す一番の方法は、
あなたはあなただ
ってあなたが認めること。
もし自分にダメだと思えることがあっても、それはダメなのではなく、人間という不完全な生き物である証だ。
自分のすべてが、正しさではなく、個性だと認識できれば、それは正しさを手放せたことになる。
ジャッジしがちなあなたは、ジャッジする自分がダメだと思うのではなく、
人間なんだからジャッジすることもあるでしょ、と捉えることが、
ジャッジから解放される一番の近道だろう。